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新しい自分を手に入れる。

ずっと以前、わたしが感銘を受けた言葉をシェアしたいと思います。これは、子どもの病について綴った別ブログでも書きましたが、今のわたしの礎となった言葉です。

とある難病医療勉強会で、脳神経外科・東保肇医師が専門の疾患について語られたことです。患者さんのおじい様が出席されて、最後の質問コーナーで手を挙げられました。

「先生、わたしの孫が明日手術をしてもらうんです。わたし急にそれを子ども夫婦に聞かされて、でも何がどうなってるのかわからなくて、それで今日来たんです。それであの、孫は治りますか。元通りになりますか。手術したら治りますよね?」

おじい様は必死でした。病人であるお孫さんは当時まだ、幼稚園くらいだったでしょうか。東保先生のところで入院されていました。

病気というのは誰も、薬を飲んだり注射をしたり、それでもダメなら手術をして、そしたらたいていのことは治る。そう思いがちです。

治らないから「難病」です。じゃあ何のために手術をするの?その時、出席者はほぼ全員が難病を持つ本人やその家族です。かなり勉強していた患者家族であるわたしたちにも、その答えはわかりません。東保先生は何とおっしゃるだろう。

「おじいさん。完治するかどうかということの答えであれば、それは完治しません。」

おじい様のほうを、わたしや他の人たちは見れませんでした。

先生「例えば、事故に遭ったとします。命も危ぶまれましたが、両腕を切断することで何とか助かりました。入院して、身体は元気になりました。それはおじいさん、完全に治ったと思われますか」

おじい様「それは腕が・・・治ってません」

先生「そうですね。その人は腕を失ってしまった。治ったかと聞かれたらそれは治っていない。じゃあ、義手をつけてリハビリをして、自分のしたい事やしなくちゃいけない事があらかた出来るようになるまでになった。治りましたか。治ってませんか」

このとき、おじい様だけでなく、参加者全員が考え込みました。事故前の、腕のある状態から考えたらそれは治ってない。じゃあ、「治る」ってどういうことなの?

東保先生は続けました。

「確かに腕はなくした。しかしその人は義手を使い、新しい生き方を掴んだ。それを治っていないというのであれば、その義手は、その苦しいリハビリは、その人にとって何だったのか」

「完治はしないかもしれない。しかし手術をしてその代わりとなるものが出来たのであれば…お孫さんの場合であれば新しい脳血管ですね、そこから歩き出せばいい。完治という言葉にこだわる必要はない」

 

出来事を受け入れるのは、難しいことです。難治性の疾患であればなおさらです。早く元気になって、また前と同じように生きたい。問題のなかった頃の自分に戻りたい。

でも実はその時点で、もうその人はその出来事や病を得ています。否定しても、拒否してもその生き方は、以前の生き方とは違ってくることでしょう。それを「もう以前のようには戻れない」と受け止めるのか「新しい道だ」と受け止めるのか。先生はそれをおっしゃっているのだな。

生きるということの覚悟を持っているのか。

患者やその家族に、問われた先生。

この話を自分の中に落としこんでからは、ずいぶんと考え方も変わってきたように思います。

悪いことや苦しいことがあっても、そこから生まれる新しい自分がいる。以前の自分にこだわる必要はない。新しく生きればいい。

今日は真面目な話でした。

 

 

 

 

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